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RAP「765プロの優雅な一日」

新年会の動画をチェックしているときに、見て戦慄した動画がこれだ。

内容はプロデューサーと小鳥さんがコーヒーを飲みながらえんえんと腐った内容を妄想するというもので、その会話内容のレベルの高さ〔ある意味低さといってもいいが〕が話題となった。プロデューサーは、アイドルのおぱんつの甘露さについて妄想し、小鳥さんはTS〔性転換〕したアイドルのカップリングについて妄想する。

妄想シーンは画面が四分割され、上段右にはプロデューサーの顔、同左にはその妄想内容、下段左には小鳥さんの顔、同右にはその妄想内容が書かれている。つまり、視聴者はその二分割されたテキストを同時に見ることになる。一つのテキスト区画において、一行は九文字、最大行数は五となっており、カットの切り替えに要する時間は五秒程度。大体、二十文字から四十文字程度のものを二つ分、その時間内に読むことになる。どちらかといえばペースははやい方のように思えるが、むしろそれが過剰でビートのきいた文体を勢いづかせており、同時に、これらのペースのはやいカットの合間合間〔大体五カット前後〕に、ペースの異なった、キメとなるカットをいくつかはさむことによって緩急がつけられている。

また、忘れてはならないのは、ここで使われている絵の枚数が大変少ないということである。五分半の動画のうち、本編となるのは四分四十五秒程度だが、その中の大半、すなわち妄想シーンでは視聴者は〔いくらかの差分はあるものの〕同じ絵を眺めることになる。ニコニコ動画における、いわゆる「紙芝居」では、どちらかといえば絵に重点が置かれているように見えるが〔というのも大抵それらの作者が絵描きだからなのだろうが〕、この動画においてその比重はそうではない。もちろん、テキストがメインかといえばそうではないのだが、ここのあたりのバランスの絶妙さが面白さに一役買っているといえる。

畏怖すべきは演出の妙であり、このたび再見したときもまた、三嘆した。とにかく、上手い。
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ト・アルP「と、ある春香さんの日常シリーズ」

一年を経て、本日完結したシリーズ。

いわゆる「ノベマスの良心」系動画、ほのぼの系ノベマスの筆頭。春香を中心に〔また、基本的には春香の一人称視点から〕、その日常、つまり友人である他のアイドルたちとの関わりや、意中の人であるプロデューサーとの関係を描いていく、というのが大体の概要である。つけくわえるならば、「と、ある女史」によるグラフィックの改変や一枚絵などもその見所の一つといえるだろう。

ここでは変則的に、このシリーズを<視点として>以下の四点を〔それぞれ独立したものではなく、連続・関連したものとして〕見ていく。そのため、このシリーズの紹介という役割をあまり果たしていないのだが、その点は了承されたい。


1. ノベマスの良心とは何か
記憶が確かならば、「ノベマスの良心」なるタグの初出はこのシリーズである。だが、そもそも、「ノベマスの良心」とは何か。

ニコニコ大百科を参照すると「良心的な動画、つまり綺麗な、心温まる動画につく」とあるが、これも今ひとつよくわからない。よくわからないのはなぜかというと、書いた私じしんが、この時点で具体的なイメージを持ちえなかったからである。

なるほど、何となくイメージはつく。アイドルたちがかわいくて〔もっとも、大抵の場合かわいいのであるが〕、ほのぼのした雰囲気をもっている動画といったところだろうか。

ここで、一つ補助線を引いてみたい。キャラクターの改変である。

注意しなければならないのは、「キャラクターの改変」が行われていないファンフィクションなど存在しないということである。つまり、「キャラ改変がないものが好み」という嗜好は、自家撞着をおこしているのだ。なんとなればすなわち、作者じしんというフィルターが存在する以上、そこには必ず解釈があり、つまりそれは、そこで「改変」が起こっているからである。だから、「キャラクターの改変」というものは度合いで示されるしかない。あるいは逆に、「キャラクターの改変」など存在しない、ともいえる。それは上記の理由からでもあるが、同時に、固定化されたキャラクターの設定というものが存在しないからでもある。というのも、キャラクターの設定はそもそもファジーなものだからであり、また、作品はその作者の所有物ではなく、その作り手と受け手の間にあるものだからである。

さて、迂回路をたどった上で、このシリーズをはじめとする「良心」動画のキャラクター設定に目をやると、その良心の何たるかの一端が見える。それは、〔前述の通り〕キャラクターの改変がないということではなく、逆に、必ずプラス方向にキャラクターの改変がなされていることである。換言すれば、キャラクターの長所を伸ばし、短所を消す方向にある、ということである。逆に、ギャグ系のファンフィクションでは、短所を引き伸ばすことによって笑いを作り出していることが多い、ということもまた、同時にいえるだろう〔ベタなネタでいくと、千早の胸ネタはその好例だ〕。


2. ファンフィクションの方向性
では、その改変の方向は、数多くのファンフィクションの中でどのような位置づけにあるのだろうか。

大雑把にいえば、ファンフィクションは四つに分類できるように見える。キャラクターに注目したもの、ストーリーに注目したもの、コメディ、そしてその他である〔もちろん、この分類は便宜的かつファジーなものであり、必ずその一つにあてはまる、というわけではない〕。

一つめの代表はこのシリーズである。原作のキャラクターに思いいれを抱き、そのキャラクターをどうこうしたいといった欲望から生み出される。キャラクターたちが終わりのない日常を〔「ビューティフル・ドリーマ-」的に〕ほのぼのと過ごすパターンである。

二つめは例えば、ななななな~Pの「春香と灰春香」である。原作のストーリーをクリティカルに改変していく傾向にある作品群であり、大抵の場合、シリアスなムードがその主調となる〔最近の例でいえば「歌姫の生まれる前」がこれにあたる〕。

三つめは例をあげる必要がない気がするが、例えばストレートPやペデューサーPといった作り手の動画である。これに関しては、読んで字の如くであり、説明を省く〔実のところ、このあたりは一つめと大いにかぶるのであるが、そこについての論は擱く〕。

四つめは例えば、陽一Pの「Bullet×M@sters」である。原作のキャラクターや設定をところどころ使いながら、それ以外の何物かになっている、いってしまえば上記の三つには分類不能な作品群である〔タミフルPの動画もここであるように思う〕。

この分類のもとで、前者二つを考えた場合、その注視している点は、ファンフィクションの方向性であると同時に、作り手がお話を作るときに主眼とする点でもあるといえる。言ってしまえば、一つめのタイプは、まずキャラクターが脳内にあって、それをさまざまなシチュエーションにおき、キャラクター各個人が動き出していくタイプであり、二つめはまずドラマが先にあるタイプである〔もちろん、作者本人に確認をとったわけではないので、ただの憶測であるが〕。

よって、いわゆる「良心」系は当然のことながら、一つめの分類にあたることになる。これは、作り手の欲望の方向性からして必然である〔というより、そもそも同義反復的ですらある〕。


3. ファンフィクションとポルノグラフィー
ここで、ファンフィクションが欲望するものを考えると、それは大抵の場合、キャラクターであるといえる。キャラクター商売が隆盛にある時期においては、特にそうだ〔なお、欲望するものと、それを具現化する方法論は別のレイヤーにある、つまり、キャラクターへの欲望からファンフィクションは作り出されるが、その制作の方向としてキャラクターを指向するか、原作のストーリーを指向するか、あるいは…という問題はその欲望とはひとまず違う次元にある――もっとも、キャラクターを指向する方向性をとった場合に、その欲望は露骨に表れるが〕。いいかえれば、ファンフィクションの快楽の中心は、キャラクターをいじり、想像することにあるということ、あるいはそれを受容するということでもある〔嫌な言い方をすれば、それは象徴的な意味でキャラクターをレイプすることでもある〕。

こう考えてみた場合、ファンフィクションはすなわち、〔映画「ファイト・クラブ」がそうであるのと同じ意味で〕ある種のポルノグラフィーであるともいえる。キャラクターへの欲望を前提とし、かつ、その欲望を刺激し、倍化させる装置だ〔エロ系のファンフィクションも多くの場合、方向性としてキャラクターに注目して制作されていることも、このことを裏打ちしているようにみえる〕。

この意味で、〔ファンフィクションは全般としてポルノグラフィックではあるが〕先にあげた第一種のタイプ、そして「と、ある春香さんの日常シリーズ」は多分にポルノグラフィックである〔銘記しておくが、けなしているつもりは全くないし、むしろ称揚しているのである〕。そしてそのことはつまり、ファンフィクションの快楽の中心をおさえているということである。

キャラクターをプラス方向に改変し、その原作では描かれなかった、描きえなかった<日常>を描出すると同時に、作り手と受け手の欲望を反映するような物語を作る、そのことこそがこのシリーズをファンフィクションの、あるいはノベマスの王道たらしめている所以である。また、このシリーズにあたっては物語が徹底的にベタなものであることもまた、それを強化しているといえるだろう。


4. 説明とフック
最後に、私が感じたこのシリーズの文章の特徴について述べる。

それは、説明が過剰であるということである。基本的に、登場キャラクターの気持ちなどは、ほとんど明示的に示されている。

これは、ニコニコ動画という場においては、一つの強烈な仕掛けになっているように思う。というのも、ニコニコ動画は動画にコメントがつくという大きな特徴があるからである。つまり、その明示された何かがフックとなり、それについてコメントがつき、そしてまたそれがさらなるコメントを呼ぶ、という流れになっているのではないか、ということである。あえて説明を省くことによりフックをかける方法[レティサンス]も使われてはいるが、メインの手法にはなりえていない〔逆に、「糸」では特に動画部分においてのレティサンスがその主な手法となっているともいえる〕。

もちろん、何でもかんでも説明すればいいというわけではないが、このシリーズにおいては、その王道なドラマと相俟って効果をあげているようにみえる。つまり、王道なドラマだからこそ、他ににたような作品の経験があり、また先が読みやすいため、反応がしやすくなっている[コメントがしやすくなっている]のではなかろうか。


■参考
ペデューサーPによる紹介
愛識Pによる紹介
桜飯Pによる紹介
ショコラさんによる紹介


■附記1
やっぱこのシリーズ、ネタコメント残したくなりますよね。ええ、なりますとも。

■附記2
新作紹介すると書いておきながらこうなったのは、要するにこのシリーズが完結するとあっては書かなくてはいけない、と、まあ、そう思ったからでありまして、はい。完結編が出ると知ってからじわじわと見返したり、メモをとったりしておりましたですよ〔お腹いっぱいです〕。アホだから見返してメモ作んないと書けないんですお(´・ω・`)
かぶとむしP「(´・ω・`)ショボーン紙芝居劇場」

紹介するには気がひける動画というものがあって、このシリーズもその一つだ。好みがわかれるだろうというのもあるが、何より、私の面白がり方が多分に人と違っていて、かつ、もしかすると作者の意図とは違った方向かもしれないからだ。

だが、一度試みに書いてみようと思う。


このシリーズは普通の動画としても楽しめるだけでなく、メタ的にも楽しめるように思う。なぜなら、私には、これがパロディであるように見えるからだ。

私が言っているのは、アイマスのパロディである、ということではない。〔ある種の〕ノベマスの、あるいはそれに対する俗情の、パロディのように見えてしまう、ということである。

いわゆる変態プロデューサー系のノベマスでは、「仕事はできる」「微妙に良いことを言う」「アイドルがころっと騙される」などのお約束がある。ある、というか、あった、というか、あるいは実際にはなかったのか、そういった細かいことは知らないが、何となくイメージはつくだろう。

本編はその方向性を極限までに高めた作品である。プロデューサーは犯罪者に近いレベルのド変態でありながら、イケメンで金持ちで仕事ができ、芝居がかったセリフを吐きつつ、アイドルをくどく。あげくの果てには、くどいたアイドル二人〔現在の所〕とセックスかぶとむし行為までする。ある種、タミフルPの「エロゲーっぽいアイマス」よりも「〔間違った〕エロゲーっぽい」かもしれない。


本編のベース、そして面白さはその「過剰さ」にあるのだ。もちろん、その過剰さはお話そのものにもあるだけでなく、例えば、音楽の使い方にもあらわれている。

バロックである。歪み、今にも崩壊してしまいそうな真珠である。崩れ落ちてしまいそうではあるが、いまだその美しさを失ってはおらず、むしろその様態が、ある種の美しさをかもしだしてもいる。

パロディをカウンターパンチとするならば、この作品は、ノベマスに対する俗情に絶妙のカウンターを〔意図したものにせよそうでないにせよ〕いれてしまっているのではないか。


冒頭で述べたように、確かに好みはわかれるだろう。嫌いだという人間もいるだろう。

だが、私は面白いと思う。いわゆる普通のノベマスとしても、そしてそのパロディとしても。

この過剰さ、歪み加減がこれからどうなるのか、私には楽しみでならない。



附記1:31話の説明文に「5/3都立産業貿易センターに行きましたが入り口で逃げました(´・ω・`)」とあった。いや、来ようよ(笑)

附記2:そろそろいつもの調子の新しめのものの紹介〔みたい何か〕メインに戻してみようかな、と思っております。こういったものもこういったもので、書くのは楽しいのですけれどね。
ボンテリP「ボンボン餓狼風アイドルマスターその1」

バカと天才は紙一重、と言われる。なるほど、天才という奴はある側面から見れば、バカであることが多い。

では、奇才はどうか。

ノベマス界の奇才〔少なくとも私はそう思う〕であるボンテリPは、鮮やかにその答えを見せてくれる。

すなわち、奇才とはバカそのものの謂である。

ニコニコにおいて、奇才と呼ばれるものたちは多くの場合、次のような問いを向けられることがよくある。つまり、「なぜそんなものを思いついたのか」、そして、「なぜそれを実際にやってみようと思ったのか」の二つである。

本編は、コミックボンボンで連載されていたマンガ「餓狼伝説」、通称ボンボン餓狼[ボンガロ]とアイドルマスターとのコラボレーションである。意味のわからない設定改変や、多くの矛盾、そして間違った方向に熱いセリフまわしなどなど、一部の数寄者を熱狂させた、伝説のマンガである。

したがって、本編の内容は推して量るべし、である。「うっお―――っ!! くっあ―――っ!! ざけんな―――っ!」である。プロデューサーが、春香が、社長が、あの口調で喋り、暴れる――それだけと言えば、それだけである。ボンガロを知らない人は、もしかするとどこが面白いのかさっぱりわからないかもしれない。だが、それがいい。

なぜこんなものを作ろうと思ったのか。

ボンテリPのブログでは「ボンボン餓狼+アイマス→何故誰もやらん?→じゃあやろう!」と書かれている。赤字で書かれた「何故誰もやらん?」の部分がすばらしい。すばらしくバカである。「何故誰もやらないんだろう?」「作ってみたらどうかな?」などではない。「何故誰もやらん?」である。単なる疑問などではない。怒りにも似た、熱いほとばしりなのである。「あってしかるべきだろう」と言っているのである。

この熱さ、そしてバカさ加減。まさしく、ボンテリPほどボンガロネタを扱うに相応しい人間はいないと、私は断言する。


なお、余談ではあるが、「ボンボン餓狼風 と、ある雨の日」「ボンボン餓狼風【アイドルマスター×サナララ】」「ボンボン餓狼風アイドルマスター 日高愛プロローグ」などという動画も存在している。もちろん、制作はボンテリPである。サナララの説明文にある「どうしてこうなった!」とは、私のセリフである。まあきっと、相続税の問題でも絡んでいるんだろう。
06/05/2009    Real Life Real Heart
わかむらP, 陽一P「Real Life Real Heart」

シリアスなお話を作りやすいキャラクターと、シリアスなお話を作りにくいキャラクターがいます。

アイドルマスターにおいて、前者の代表はたとえば如月千早で、後者の代表はたとえば高槻やよいです。それがシリアスな物語であればあるほど、千早を中心としたそれは作りやすくなるのに対し、やよいを中心としたものは作りにくくなります。

これは、キャラクターにおける性格の欠損の問題です。なんとなればすなわち、基本的にシリアスな物語には、主人公の何らかの意味での成長が、メインプロットにしろサブプロットにしろ、組み込まれているからです。この意味で、性格的にある種の欠損をもつ如月千早は、そうではない高槻やよいに比べて、シリアスな物語の主人公役として使いやすい存在だといえるでしょう。一方、高槻やよいは、その天真爛漫な性格から、シリアスな物語の主人公ではなく、主人公と、その成長を助ける役になりがちです。たとえば、一般的な「やよいおり」のストーリーラインでは、水瀬伊織の全人的成長を高槻やよいがサポートする役割におかれています。あるいは、千早とやよいを組み合わせても、同様のプロットができあがるでしょう。

この「Real Life Real Heart」という作品がすぐれているのは、まさに、これらの誘惑、あるいは難点を振りきって、高槻やよいをシリアスな物語の主人公に据えられたことに尽きるといってよいでしょう。「現在の」高槻やよいでなく、「歪んだ経過」を挿入することによって、欠損を作りだされたやよいは、少なくとも私にとっては、納得のいくキャラクター改変でした。

シリアスなお話の主人公にしにくいやよいを、自然な方向へ改変して欠損を作りだすこと――それこそが、この作品の妙味であり、評価されなければならない点だと考えます。
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