--/--/--    スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ト・アルP「と、ある春香さんの日常シリーズ」

一年を経て、本日完結したシリーズ。

いわゆる「ノベマスの良心」系動画、ほのぼの系ノベマスの筆頭。春香を中心に〔また、基本的には春香の一人称視点から〕、その日常、つまり友人である他のアイドルたちとの関わりや、意中の人であるプロデューサーとの関係を描いていく、というのが大体の概要である。つけくわえるならば、「と、ある女史」によるグラフィックの改変や一枚絵などもその見所の一つといえるだろう。

ここでは変則的に、このシリーズを<視点として>以下の四点を〔それぞれ独立したものではなく、連続・関連したものとして〕見ていく。そのため、このシリーズの紹介という役割をあまり果たしていないのだが、その点は了承されたい。


1. ノベマスの良心とは何か
記憶が確かならば、「ノベマスの良心」なるタグの初出はこのシリーズである。だが、そもそも、「ノベマスの良心」とは何か。

ニコニコ大百科を参照すると「良心的な動画、つまり綺麗な、心温まる動画につく」とあるが、これも今ひとつよくわからない。よくわからないのはなぜかというと、書いた私じしんが、この時点で具体的なイメージを持ちえなかったからである。

なるほど、何となくイメージはつく。アイドルたちがかわいくて〔もっとも、大抵の場合かわいいのであるが〕、ほのぼのした雰囲気をもっている動画といったところだろうか。

ここで、一つ補助線を引いてみたい。キャラクターの改変である。

注意しなければならないのは、「キャラクターの改変」が行われていないファンフィクションなど存在しないということである。つまり、「キャラ改変がないものが好み」という嗜好は、自家撞着をおこしているのだ。なんとなればすなわち、作者じしんというフィルターが存在する以上、そこには必ず解釈があり、つまりそれは、そこで「改変」が起こっているからである。だから、「キャラクターの改変」というものは度合いで示されるしかない。あるいは逆に、「キャラクターの改変」など存在しない、ともいえる。それは上記の理由からでもあるが、同時に、固定化されたキャラクターの設定というものが存在しないからでもある。というのも、キャラクターの設定はそもそもファジーなものだからであり、また、作品はその作者の所有物ではなく、その作り手と受け手の間にあるものだからである。

さて、迂回路をたどった上で、このシリーズをはじめとする「良心」動画のキャラクター設定に目をやると、その良心の何たるかの一端が見える。それは、〔前述の通り〕キャラクターの改変がないということではなく、逆に、必ずプラス方向にキャラクターの改変がなされていることである。換言すれば、キャラクターの長所を伸ばし、短所を消す方向にある、ということである。逆に、ギャグ系のファンフィクションでは、短所を引き伸ばすことによって笑いを作り出していることが多い、ということもまた、同時にいえるだろう〔ベタなネタでいくと、千早の胸ネタはその好例だ〕。


2. ファンフィクションの方向性
では、その改変の方向は、数多くのファンフィクションの中でどのような位置づけにあるのだろうか。

大雑把にいえば、ファンフィクションは四つに分類できるように見える。キャラクターに注目したもの、ストーリーに注目したもの、コメディ、そしてその他である〔もちろん、この分類は便宜的かつファジーなものであり、必ずその一つにあてはまる、というわけではない〕。

一つめの代表はこのシリーズである。原作のキャラクターに思いいれを抱き、そのキャラクターをどうこうしたいといった欲望から生み出される。キャラクターたちが終わりのない日常を〔「ビューティフル・ドリーマ-」的に〕ほのぼのと過ごすパターンである。

二つめは例えば、ななななな~Pの「春香と灰春香」である。原作のストーリーをクリティカルに改変していく傾向にある作品群であり、大抵の場合、シリアスなムードがその主調となる〔最近の例でいえば「歌姫の生まれる前」がこれにあたる〕。

三つめは例をあげる必要がない気がするが、例えばストレートPやペデューサーPといった作り手の動画である。これに関しては、読んで字の如くであり、説明を省く〔実のところ、このあたりは一つめと大いにかぶるのであるが、そこについての論は擱く〕。

四つめは例えば、陽一Pの「Bullet×M@sters」である。原作のキャラクターや設定をところどころ使いながら、それ以外の何物かになっている、いってしまえば上記の三つには分類不能な作品群である〔タミフルPの動画もここであるように思う〕。

この分類のもとで、前者二つを考えた場合、その注視している点は、ファンフィクションの方向性であると同時に、作り手がお話を作るときに主眼とする点でもあるといえる。言ってしまえば、一つめのタイプは、まずキャラクターが脳内にあって、それをさまざまなシチュエーションにおき、キャラクター各個人が動き出していくタイプであり、二つめはまずドラマが先にあるタイプである〔もちろん、作者本人に確認をとったわけではないので、ただの憶測であるが〕。

よって、いわゆる「良心」系は当然のことながら、一つめの分類にあたることになる。これは、作り手の欲望の方向性からして必然である〔というより、そもそも同義反復的ですらある〕。


3. ファンフィクションとポルノグラフィー
ここで、ファンフィクションが欲望するものを考えると、それは大抵の場合、キャラクターであるといえる。キャラクター商売が隆盛にある時期においては、特にそうだ〔なお、欲望するものと、それを具現化する方法論は別のレイヤーにある、つまり、キャラクターへの欲望からファンフィクションは作り出されるが、その制作の方向としてキャラクターを指向するか、原作のストーリーを指向するか、あるいは…という問題はその欲望とはひとまず違う次元にある――もっとも、キャラクターを指向する方向性をとった場合に、その欲望は露骨に表れるが〕。いいかえれば、ファンフィクションの快楽の中心は、キャラクターをいじり、想像することにあるということ、あるいはそれを受容するということでもある〔嫌な言い方をすれば、それは象徴的な意味でキャラクターをレイプすることでもある〕。

こう考えてみた場合、ファンフィクションはすなわち、〔映画「ファイト・クラブ」がそうであるのと同じ意味で〕ある種のポルノグラフィーであるともいえる。キャラクターへの欲望を前提とし、かつ、その欲望を刺激し、倍化させる装置だ〔エロ系のファンフィクションも多くの場合、方向性としてキャラクターに注目して制作されていることも、このことを裏打ちしているようにみえる〕。

この意味で、〔ファンフィクションは全般としてポルノグラフィックではあるが〕先にあげた第一種のタイプ、そして「と、ある春香さんの日常シリーズ」は多分にポルノグラフィックである〔銘記しておくが、けなしているつもりは全くないし、むしろ称揚しているのである〕。そしてそのことはつまり、ファンフィクションの快楽の中心をおさえているということである。

キャラクターをプラス方向に改変し、その原作では描かれなかった、描きえなかった<日常>を描出すると同時に、作り手と受け手の欲望を反映するような物語を作る、そのことこそがこのシリーズをファンフィクションの、あるいはノベマスの王道たらしめている所以である。また、このシリーズにあたっては物語が徹底的にベタなものであることもまた、それを強化しているといえるだろう。


4. 説明とフック
最後に、私が感じたこのシリーズの文章の特徴について述べる。

それは、説明が過剰であるということである。基本的に、登場キャラクターの気持ちなどは、ほとんど明示的に示されている。

これは、ニコニコ動画という場においては、一つの強烈な仕掛けになっているように思う。というのも、ニコニコ動画は動画にコメントがつくという大きな特徴があるからである。つまり、その明示された何かがフックとなり、それについてコメントがつき、そしてまたそれがさらなるコメントを呼ぶ、という流れになっているのではないか、ということである。あえて説明を省くことによりフックをかける方法[レティサンス]も使われてはいるが、メインの手法にはなりえていない〔逆に、「糸」では特に動画部分においてのレティサンスがその主な手法となっているともいえる〕。

もちろん、何でもかんでも説明すればいいというわけではないが、このシリーズにおいては、その王道なドラマと相俟って効果をあげているようにみえる。つまり、王道なドラマだからこそ、他ににたような作品の経験があり、また先が読みやすいため、反応がしやすくなっている[コメントがしやすくなっている]のではなかろうか。


■参考
ペデューサーPによる紹介
愛識Pによる紹介
桜飯Pによる紹介
ショコラさんによる紹介


■附記1
やっぱこのシリーズ、ネタコメント残したくなりますよね。ええ、なりますとも。

■附記2
新作紹介すると書いておきながらこうなったのは、要するにこのシリーズが完結するとあっては書かなくてはいけない、と、まあ、そう思ったからでありまして、はい。完結編が出ると知ってからじわじわと見返したり、メモをとったりしておりましたですよ〔お腹いっぱいです〕。アホだから見返してメモ作んないと書けないんですお(´・ω・`)
スポンサーサイト
かぶとむしP「(´・ω・`)ショボーン紙芝居劇場」

紹介するには気がひける動画というものがあって、このシリーズもその一つだ。好みがわかれるだろうというのもあるが、何より、私の面白がり方が多分に人と違っていて、かつ、もしかすると作者の意図とは違った方向かもしれないからだ。

だが、一度試みに書いてみようと思う。


このシリーズは普通の動画としても楽しめるだけでなく、メタ的にも楽しめるように思う。なぜなら、私には、これがパロディであるように見えるからだ。

私が言っているのは、アイマスのパロディである、ということではない。〔ある種の〕ノベマスの、あるいはそれに対する俗情の、パロディのように見えてしまう、ということである。

いわゆる変態プロデューサー系のノベマスでは、「仕事はできる」「微妙に良いことを言う」「アイドルがころっと騙される」などのお約束がある。ある、というか、あった、というか、あるいは実際にはなかったのか、そういった細かいことは知らないが、何となくイメージはつくだろう。

本編はその方向性を極限までに高めた作品である。プロデューサーは犯罪者に近いレベルのド変態でありながら、イケメンで金持ちで仕事ができ、芝居がかったセリフを吐きつつ、アイドルをくどく。あげくの果てには、くどいたアイドル二人〔現在の所〕とセックスかぶとむし行為までする。ある種、タミフルPの「エロゲーっぽいアイマス」よりも「〔間違った〕エロゲーっぽい」かもしれない。


本編のベース、そして面白さはその「過剰さ」にあるのだ。もちろん、その過剰さはお話そのものにもあるだけでなく、例えば、音楽の使い方にもあらわれている。

バロックである。歪み、今にも崩壊してしまいそうな真珠である。崩れ落ちてしまいそうではあるが、いまだその美しさを失ってはおらず、むしろその様態が、ある種の美しさをかもしだしてもいる。

パロディをカウンターパンチとするならば、この作品は、ノベマスに対する俗情に絶妙のカウンターを〔意図したものにせよそうでないにせよ〕いれてしまっているのではないか。


冒頭で述べたように、確かに好みはわかれるだろう。嫌いだという人間もいるだろう。

だが、私は面白いと思う。いわゆる普通のノベマスとしても、そしてそのパロディとしても。

この過剰さ、歪み加減がこれからどうなるのか、私には楽しみでならない。



附記1:31話の説明文に「5/3都立産業貿易センターに行きましたが入り口で逃げました(´・ω・`)」とあった。いや、来ようよ(笑)

附記2:そろそろいつもの調子の新しめのものの紹介〔みたい何か〕メインに戻してみようかな、と思っております。こういったものもこういったもので、書くのは楽しいのですけれどね。
06/12/2009    テクストと映像と
たとえば、小説にはテクストの快楽があります。

登場人物や話の筋といった語られるものだけでなく、その語られ方、あるいはその語りそのものが小説の大きな魅力であり、愉悦です。あるいは、それこそが、最大の美点なのかもしれません。

ぼくの好きな小説に漱石の「坊つちやん」があります。ぼくごときがいまさらいうことではないのですが、その一番の魅力はそのテクストにあると思います。坊っちゃんの喋るその言葉、あるいは山嵐の、赤シャツの、野だいこの、狸の、生徒たちのそれは、一つ一つ全く異なっていて、それぞれがキャラクターを書きわけながら、各人を駆動させています。そしてまた同時に、うらなり君とマドンナは二人ともほとんど喋らないことによって、そのありようを見せています。

話の筋は単純です。外からやってきた坊っちゃん[主人公]は、山嵐[相棒]とケンカを通して仲良くなり、二人で協力しながら赤シャツと野だいこ[敵]を〔物理的に〕叩きのめすが、最終的には町を追われる――まとめてしまえば、たったこれだけです。どこからかやってきた主人公が相棒を〔トラブルを挟んで〕作りつつ、敵に一矢報いて、また去っていくという筋は、他の小説なり映画なりといったものにもよく登場します。というより、いってしまえば、そもそも、話の筋という奴は結局かぎられたパターンに収まってしまうものなのかもしれません。

あるいは、映画について考えます。映画の楽しみは何か。もちろん、話じたいでもありますが、すくなくとも半分は、その映像であるといってよいでしょう。

なんらかのストーリーを伴う他のジャンルにしても、その話じたいの重要性というのは、多くて半分といったところではないでしょうか。

小説におけるストーリーとテクストは、あるいは映画におけるお話と映像は、車軸の両輪のように通底しながら、互いに影響をあたえ、作品を前進させています。

それでは、NovelsM@sterというジャンルでは、どうか。

いわゆるネタ系のものはおいておくとして、なんらかの一貫したストーリーをつむぐ作品においては、この事実が大きくのしかかってきます。

定義上、映像をもちながら、テクストによってお話をすすめるというNovelsM@ster〔あるいは、架空戦記でも、もしかしたらそうかもしれません〕では、映像とテクストはいったいいかなるものであるべきなのでしょうか。言うまでもないことですが、一人称や呼称、あるいはメッセージウィンドウやキャラクターの立ち絵などといった程度の低い話ではありません〔もちろん、それらの重要性を否定するわけではありませんが〕。

たとえば、「」は、表示されるものをテクストのみにすることによって、その姿勢をあきらかにしています。あるいはたとえば、「夜は短し走れよ乙女」では、その色彩がストーリーと対応しながら円環をえがき〔使われている色の並び順に注目すべし〕、物語を〔文字通り〕彩っています。

テクストと映像のどちらがお話を駆動し、プロットに精彩を与えるのか、あるいはいずれが主となり従となるのか、そしてその比率はどうかという、話を演出するにあたっての根本的な問題は、文字を使いながらお話をみせる動画において、深くその身を横たえています。

幸運なことに、そしてまた不幸なことに、この問いには一つの解答というものは存在しないでしょう。いいかえれば、なんらかのストーリーを伴った動画を〔文字を使いながら〕作るということは、この問いにひとまずの回答を出す、ということなのかもしれません。
ボンテリP「ボンボン餓狼風アイドルマスターその1」

バカと天才は紙一重、と言われる。なるほど、天才という奴はある側面から見れば、バカであることが多い。

では、奇才はどうか。

ノベマス界の奇才〔少なくとも私はそう思う〕であるボンテリPは、鮮やかにその答えを見せてくれる。

すなわち、奇才とはバカそのものの謂である。

ニコニコにおいて、奇才と呼ばれるものたちは多くの場合、次のような問いを向けられることがよくある。つまり、「なぜそんなものを思いついたのか」、そして、「なぜそれを実際にやってみようと思ったのか」の二つである。

本編は、コミックボンボンで連載されていたマンガ「餓狼伝説」、通称ボンボン餓狼[ボンガロ]とアイドルマスターとのコラボレーションである。意味のわからない設定改変や、多くの矛盾、そして間違った方向に熱いセリフまわしなどなど、一部の数寄者を熱狂させた、伝説のマンガである。

したがって、本編の内容は推して量るべし、である。「うっお―――っ!! くっあ―――っ!! ざけんな―――っ!」である。プロデューサーが、春香が、社長が、あの口調で喋り、暴れる――それだけと言えば、それだけである。ボンガロを知らない人は、もしかするとどこが面白いのかさっぱりわからないかもしれない。だが、それがいい。

なぜこんなものを作ろうと思ったのか。

ボンテリPのブログでは「ボンボン餓狼+アイマス→何故誰もやらん?→じゃあやろう!」と書かれている。赤字で書かれた「何故誰もやらん?」の部分がすばらしい。すばらしくバカである。「何故誰もやらないんだろう?」「作ってみたらどうかな?」などではない。「何故誰もやらん?」である。単なる疑問などではない。怒りにも似た、熱いほとばしりなのである。「あってしかるべきだろう」と言っているのである。

この熱さ、そしてバカさ加減。まさしく、ボンテリPほどボンガロネタを扱うに相応しい人間はいないと、私は断言する。


なお、余談ではあるが、「ボンボン餓狼風 と、ある雨の日」「ボンボン餓狼風【アイドルマスター×サナララ】」「ボンボン餓狼風アイドルマスター 日高愛プロローグ」などという動画も存在している。もちろん、制作はボンテリPである。サナララの説明文にある「どうしてこうなった!」とは、私のセリフである。まあきっと、相続税の問題でも絡んでいるんだろう。
06/05/2009    Real Life Real Heart
わかむらP, 陽一P「Real Life Real Heart」

シリアスなお話を作りやすいキャラクターと、シリアスなお話を作りにくいキャラクターがいます。

アイドルマスターにおいて、前者の代表はたとえば如月千早で、後者の代表はたとえば高槻やよいです。それがシリアスな物語であればあるほど、千早を中心としたそれは作りやすくなるのに対し、やよいを中心としたものは作りにくくなります。

これは、キャラクターにおける性格の欠損の問題です。なんとなればすなわち、基本的にシリアスな物語には、主人公の何らかの意味での成長が、メインプロットにしろサブプロットにしろ、組み込まれているからです。この意味で、性格的にある種の欠損をもつ如月千早は、そうではない高槻やよいに比べて、シリアスな物語の主人公役として使いやすい存在だといえるでしょう。一方、高槻やよいは、その天真爛漫な性格から、シリアスな物語の主人公ではなく、主人公と、その成長を助ける役になりがちです。たとえば、一般的な「やよいおり」のストーリーラインでは、水瀬伊織の全人的成長を高槻やよいがサポートする役割におかれています。あるいは、千早とやよいを組み合わせても、同様のプロットができあがるでしょう。

この「Real Life Real Heart」という作品がすぐれているのは、まさに、これらの誘惑、あるいは難点を振りきって、高槻やよいをシリアスな物語の主人公に据えられたことに尽きるといってよいでしょう。「現在の」高槻やよいでなく、「歪んだ経過」を挿入することによって、欠損を作りだされたやよいは、少なくとも私にとっては、納得のいくキャラクター改変でした。

シリアスなお話の主人公にしにくいやよいを、自然な方向へ改変して欠損を作りだすこと――それこそが、この作品の妙味であり、評価されなければならない点だと考えます。
06/01/2009    Pの憂鬱
憂鬱P「Pの憂鬱」

ペデューサーPはストレートPの子供である。ストレートPがライオスならば、ペデューサーPはオイディプスである。

ペデューサーPはノベマスを作る際に、先人であるストレートPの作品を研究したという〔参照〕。そしてその結果、ダウナー系のコントである「あっというま劇場」とは逆の位置にある、アッパー系漫才の「ドタバタ紙芝居」を制作した。

してみると、憂鬱PはペデューサーPの何になるだろうか。

それはきっと、弟か妹のようなものだ。ペデューサーPがストレートPの逆を行ったとすれば、憂鬱PはペデューサーPの枠組みからズレたのだ。

なるほど、アッパー系の漫才という分類では、同じである。文字や音、SEなどのタイミングへのこだわりもまた、指向性が似ているといえる。しかし、その内容は十二分に差別化されている。下ネタと真美というペデューサーPがいずれも用いない道具をメインにして、「Pの憂鬱」は制作されている。「真美は変態」タグはその証だ。

憂鬱Pの過去のブログ記事〔消されているが〕を見たことのあるならば、憂鬱PがペデューサーPをかなり意識していたことは〔直接的に言及されていないものの〕、自ずと明らかであることは首肯してもらえるだろう。

そういった意味で、この作品はいわゆるところの「タミストペドの劣化コピー」ではなく、ペデューサーPの異母兄弟であり、あるいはその後継者である、と言えるだろう。



参照:ねこようじPによる「Pの憂鬱」のレビュー

附記:新作の紹介をしてもよかったのですが、以前はこういった少し長めの文章での紹介をしていなかったこともあり、新作に加えて、これからは前からある動画についてもエントリを出していこうと思います。また、少し前に「紹介の方向が定まった」などとある人にのたまったのですが、実のところ、依然として迷っているというか、いくつかの方向性を試しながらやっていきたいと思っています。まあ、これからも好き勝手に紹介しますよ、ということで。
06/01/2009    六月のノベマス系企画
ノベマス系企画が二つ。

■5mium@s
6月14日(日)開催。主催はシロP。タグロック形式。

レギュレーションは…
・NovelsM@sterであること〔定義は各自にゆだねる〕
・動画の長さが5分以内であること
・"5mium@s"タグをロックすること
の三つ。

詳しくはシロPブログの当該記事、およびニコニコ大百科の当該記事参照。

なお、すでに支援動画がいくつもあがっている模様。ニコマスPのフットワークは、軽い。


■iSF
teamGBMの開催企画。

GBMメンバー有志が中心となって、お題にそった動画を期限中に制作、公開するという企画の第二段。今回の期限は六月いっぱいで、お題は「リロード」とのこと。

すでに何本か動画が公開されているので、マイリストからどうぞ。

詳しい情報はiSFブログをごらんください。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。