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06/12/2009    テクストと映像と
たとえば、小説にはテクストの快楽があります。

登場人物や話の筋といった語られるものだけでなく、その語られ方、あるいはその語りそのものが小説の大きな魅力であり、愉悦です。あるいは、それこそが、最大の美点なのかもしれません。

ぼくの好きな小説に漱石の「坊つちやん」があります。ぼくごときがいまさらいうことではないのですが、その一番の魅力はそのテクストにあると思います。坊っちゃんの喋るその言葉、あるいは山嵐の、赤シャツの、野だいこの、狸の、生徒たちのそれは、一つ一つ全く異なっていて、それぞれがキャラクターを書きわけながら、各人を駆動させています。そしてまた同時に、うらなり君とマドンナは二人ともほとんど喋らないことによって、そのありようを見せています。

話の筋は単純です。外からやってきた坊っちゃん[主人公]は、山嵐[相棒]とケンカを通して仲良くなり、二人で協力しながら赤シャツと野だいこ[敵]を〔物理的に〕叩きのめすが、最終的には町を追われる――まとめてしまえば、たったこれだけです。どこからかやってきた主人公が相棒を〔トラブルを挟んで〕作りつつ、敵に一矢報いて、また去っていくという筋は、他の小説なり映画なりといったものにもよく登場します。というより、いってしまえば、そもそも、話の筋という奴は結局かぎられたパターンに収まってしまうものなのかもしれません。

あるいは、映画について考えます。映画の楽しみは何か。もちろん、話じたいでもありますが、すくなくとも半分は、その映像であるといってよいでしょう。

なんらかのストーリーを伴う他のジャンルにしても、その話じたいの重要性というのは、多くて半分といったところではないでしょうか。

小説におけるストーリーとテクストは、あるいは映画におけるお話と映像は、車軸の両輪のように通底しながら、互いに影響をあたえ、作品を前進させています。

それでは、NovelsM@sterというジャンルでは、どうか。

いわゆるネタ系のものはおいておくとして、なんらかの一貫したストーリーをつむぐ作品においては、この事実が大きくのしかかってきます。

定義上、映像をもちながら、テクストによってお話をすすめるというNovelsM@ster〔あるいは、架空戦記でも、もしかしたらそうかもしれません〕では、映像とテクストはいったいいかなるものであるべきなのでしょうか。言うまでもないことですが、一人称や呼称、あるいはメッセージウィンドウやキャラクターの立ち絵などといった程度の低い話ではありません〔もちろん、それらの重要性を否定するわけではありませんが〕。

たとえば、「」は、表示されるものをテクストのみにすることによって、その姿勢をあきらかにしています。あるいはたとえば、「夜は短し走れよ乙女」では、その色彩がストーリーと対応しながら円環をえがき〔使われている色の並び順に注目すべし〕、物語を〔文字通り〕彩っています。

テクストと映像のどちらがお話を駆動し、プロットに精彩を与えるのか、あるいはいずれが主となり従となるのか、そしてその比率はどうかという、話を演出するにあたっての根本的な問題は、文字を使いながらお話をみせる動画において、深くその身を横たえています。

幸運なことに、そしてまた不幸なことに、この問いには一つの解答というものは存在しないでしょう。いいかえれば、なんらかのストーリーを伴った動画を〔文字を使いながら〕作るということは、この問いにひとまずの回答を出す、ということなのかもしれません。
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