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08/05/2009    技術と知識と
時間があいたので、ノベマス系のブログを巡ってみて、いまさらぴんと来たのがこの記事だ。確か前に読んだときもそう思ったはずなのだけれど、いまになって自分なりの考えというものがもやもやから形をなしはじめたのだ。

ぼくにとって重要なのは「文字動画の利点」ではなく、二段目にある「『面白い』のは誰の手柄?」のほうだ。ここでは、面白い/面白くないを決める多くは読者、視聴者の生き様や経験などに起因するのではないかと語られている。

ふと思ったのだが、まずは読者/視聴者の技術というものを考えなければいけないのではないだろうか。単純にいってしまえば、何らかの作品を楽しむには技術がいり、また知識もいるはずだということだ。もちろん、読解に要する技術や知識の高低によってその価値が決まるわけではないが、すくなくとも、そういったものが必要であることは確かであるように思う。

たとえば、ヌーヴォー・ロマンを楽しむには確かな小説の読解能力が不可欠だし(ぼくもアレを楽しむにはいささか能力が欠けている)、ファインアートを鑑賞するには技術とともに美術史の知識が必要だ(単に絵をながめてきれいだというのはオムツとれたてのガキにだってできるし、そんなものは鑑賞とはいえない)。より卑近で単純な能力をあげれば、「伏線に気づくか気づかないか」ということは物語を楽しむにあたって重要な分岐点だ。あるいは、推理小説などにおけるトリックの感知問題にしたってそうだ。知識面の問題はパロディにいつだってついてまわる。

朗読Pが「私は物語を削る」といっている。あるいは「余白を作る」とも。陽一Pのテキストをチェックさせられるとき、ぼくはよく「もっと削れ」「ここいらなくね?」などといっている気がする(本当かどうかは陽一P本人に聞かないとわからないけど)。おそらく、もっと埋めてしまったほうがわかりやすいだろうと思う。けれど、そうでないほうが気持ちがいい。それは受け手の想像の余地があり、そこに入りやすいということもあるのだろうが、それについては措こう。ここでは結局、受け手に要求する読解能力のレベルを上げていることになる。

どういったものが好きなのかという好みの問題はあるにせよ、受け手の技術と知識という問題は作り手だけでなく、受け手としても避けて通れない。受け手としての自分から見れば、それが高ければ高いほど、より多くのものを楽しめるように思うし、それこそがオタクの生きる道ではなかったのか、とも、また、思ったりするのである。

まあ、なんでも、いいですけれど。


追記:書いては消し、消しては書いてをくりかえす日々でございます。ああ、どうしてくれよう。
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