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12/07/2008    

しゃらんらP 「A girl growing flowers」
しゃらんらPきた!これで勝つる!

拙作「のべますPのみわけかた そのご」で紹介させていただいた「Somewhere in the sky」の方ですね。やっぱりいいなあ。伸びろ伸びろ。


昨日の陽一Pのラジオはなかなか面白かった。ノベマスうんちゃらの話も「へー」とか思いながらきいて、わりと自分の今後について少し想いを馳せたりもした(結果、もう好きに書きたいの書けばいいや、となったのがアレだが)。

で、このラジオに送ったメールに「バレマスの主人公って春香じゃなくてPだよね?」というのがあって、「メインはPと春香だけど、一応全員が主人公として考えてます」と答えられて、なるほどと思った。

そういうわけで、ここで質問の意図みたいなものをさらしてみる。簡単にいっちゃえば、「ぼくちんはこーゆー風にバレマスを見てますー」ってだけの話なんだけど。とりあえず主人公というのを一人であると想定して考えているので、そこらへんはよろしく。

以下、長いので格納。

結局のところ、主人公とは何か、という定義の問題に帰着するのだけど、とりあえずは物語の中心人物、と置こう。

なぜ自分が、主人公はプロデューサーである、と思ったかというと、答えは単純で、プロデューサーが成長する、あるいはうしなわれた何かをとりもどす話である(とバレマスを考えている)から。多くのエンタテインメント的な物語は、多かれ少なかれ登場人物、特に主人公が何かを得る(あるいは失う)お話である。より単純化すれば、お話というのはある問題を解決する(あるいはそれに失敗する)というだけのことなのだが、それは措く。逆にいえば、物語で挫折をはさみながら成長をする(何かをとりもどす)人物が主人公、ということになる。

ここで一度回り道をしよう。なぜかこのような思い込みが蔓延しているように思えるのだが、主人公=観客が感情移入する人物、ではないことに注意されたい。というより、日本はともかく、ハリウッド映画なりなんなりといった海外の作品では、主人公と、観客が感情移入する人物(視聴者の視点となる人物)は多くの場合わけられており、バディと呼ばれている。たとえば、シャーロック・ホームズであれば、主人公はホームズだが、バディはワトソンとなる(ポワロとヘイスティングズでも、モルダーとスカリーでも、まあ何でもよい…ホット・ファズならエンジェルとダニーかな)。視聴者の視点となるのは、あからさまに変人であるホームズ、ではなく、常識人のワトソンである。

さて、問題は春香である。もちろん、春香だってバレマスでは成長している。けれど、春香が自分には(唯一的存在としての)主人公であると思えない理由は、春香がこの物語のバディをつとめているように見えるからだ。バレマス内で考えてみると、春香以外にバディになれる人物がいない。というのも、春香以外のキャラクターというのは、何らかの過去にまつわる因縁というのがあって、今ひとつ視聴者の視点になるには難しい(もちろん、春香にもそういう絡みがあるのだけど、そこまで大きいものではないように思う)。

もちろん、ある人物が主人公とバディをかねるということや、あるいはモノローグや自問自答をつかってバディを登場させないこともよくあるのだけれど…どうなのかな。少なくとも、自分はあまり春香に「解決すべき問題」を見出せないし、モノローグや自問自答ってそんなにない、よね。

ここまでぐだぐだと書いてきたのを思いっきりまとめると、自分にとってバレマスはこういう話になる:春香の視点から、プロデューサーその他が外的な問題である、芸能界のぐちゃぐちゃっぽいのを解決しつつ、プロデューサーの内的な問題である何かを解決する話。

うん、こうだな。最初からこういう風に書けばよかった。まあいいや。何も考えずにキーボードうってごめんね。
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