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というわけで、「語って悪いか!」キャンペーンの第一弾記事です。

ぶっちゃけ、この記事ができるまで正式発表を待ったのは秘密。だって自分の記事もないのに「やるよー」とかおかしくね?

硬い調子になったのは…何でだろ。たぶん自分が小説より、硬い本を好むからだと思いますけど。まあ、皆さんはもっと読みやすく面白い記事をお書きになるとよいと思います。



さてさて、始めに語らせていただくのは、先日完結した桜飯Pによる「春の訪れ」です。以下格納。
まずはじめに言うと、教科書のような作品だとぼくは思います。もちろん、いい意味で、です。言いかえれば、直球ど真ん中な、正統派のお話だと思っています。


この点をまず、お話の作りという点から考えます。

大雑把にいって、お話という奴の多くは(特にエンタテインメントの分野では)、日常→非日常→日常というプロセスをたどりながら、何らかの問題を解決する(あるいはしない)という作りになっています。たとえば、探偵小説なんかがすごく分かりやすく、事件によって日常が破られ、その事件=問題を解決して日常にもどる、という構造になっています。もちろん、こういった「問題」は外的なものに限らず、内面的な問題をも含みます。主人公の内的な問題を解決すること、すなわち、内面的に成長することが物語の大きな焦点とする多くの物語をご存知ではないかと思います。もちろん、これらの問題は一つではなく、同時並行して、つまりメインストーリーといくつかのサブストーリーを通して解決するという形式をとっていることがほとんどです。

さて、「春の訪れ」の話に戻りましょう。ここまで物語の作りについて書いてきたのは、要するに、このお話がこの基本的な構造に忠実になっているからです。千早とやよいがユニットを組むという非日常を通して、精神的に成長し、外面的にはアイドルとして成功を収める…分解してみればこのようになると思います。

ぼくが言いたいことは、こういう作りにのっとっているから良い/悪いということでは、もちろんありません。けれども、このような構造を意識的にせよ無意識的にせよ、応用できているということじたいが特筆すべきことであり、またこれを含めた構成の上手さが物語に一定のリズムとカタルシスを与えていることは否定しえません。そしてこのことこそが、中編・長編のノベマスの中で「春の訪れ」が注視されなければなれない理由の一つだと思います。


次に、原作との関係について考えます。

オリジナル設定をあまり使わないノベマスを考える場合、いかに原作に近づけるか、ということが問題になります。言いかえれば、どれだけアイドルマスターという世界観の中で物語がリアリティを獲得できるのか、という問題です。

この問題に対して、「春の訪れ」は原作のコミュを改変して使うというアプローチを採用しています。例えば老人ホームのコミュや、やよいの休日コミュを流用しています。この結果、物語は「アイドルマスター」の世界観の中で、「ありそうな感じ」を得ているように見えます。

より根本的な部分では、この物語じたいが、千早のシナリオと大きくかさなりあっていることがあげられます。作者自身が「千早をメインにおきすぎた」と述べるとおり、お話は千早が自らの「居場所」を見つけ、成長していくプロセスをたどります。原作でのプロデューサーの位置はやよいによっておきかえられ、プロデューサーとの愛情ではなく、やよいとの友情によって千早は自身を乗り越えます。

このやよいとプロデューサーの置き換えは「失敗」として作者自身による解説として挙げられていますが、自分にはそうは思えません。むしろ、千早がプロデューサーに依存して終わる原作よりも、やよいとの依存関係から抜け出すこの物語のほうが、「千早の成長物語」としては成功を収めているのではないでしょうか(付記しておきますが、私は別に原作の物語がダメだと言っているわけではありません――「春の訪れ」とは、あるいはこの文章とは焦点がズレているだけの話です)。


最後に、作中のプロデューサーについて。

作者は、「Pが空気になった」と述べます。確かに、作中のプロデューサーの存在感はありません。でも、逆に考えてみたらどうでしょう。プロデューサーの存在感が強い、ということは作中で活躍をしてしまう、ということでもあります。そうした場合、千早とやよいはプロデューサーに頼って、アイドルとして成長をしていくでしょう。そしてそのことが良いのか悪いのか、という点はひとまずおきます。

ところで、自分じしんが年齢の上ではもう大人なので、ぼくは大人についてよく考えるのです。大人とはどうあるべきものなのでしょうか? ことに、子供たち――そう、彼女達は子供なのです!――が精一杯努力し、成長しようとしている時には。思うに、それは子供たちが失敗しても大丈夫だと思えるような、そういった環境を用意してあげることなのではないでしょうか。失敗しないようにするより、失敗しても立ち上がれるようにすることこそが、大人のするべきことなのではないか、とぼくは信じます。

この物語の中で、プロデューサーがそういった大人になれているかどうかについて、材料が足りないので、ここでは述べません。けれど、ぼくはプロデューサーが、描かれていない場所で何をやっていたのか、なんだか無性に想像してしまうのです。だって、結果論かもしれませんが、子供たちは無事に成長し、巣立つことができたのですから。




P.S. もはや作品とは関係ないことが文章の大半じゃねーか、という意見は聞き流します。何でこんなことになっちゃったんだろう?
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