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かぶとむしP「(´・ω・`)ショボーン紙芝居劇場」

紹介するには気がひける動画というものがあって、このシリーズもその一つだ。好みがわかれるだろうというのもあるが、何より、私の面白がり方が多分に人と違っていて、かつ、もしかすると作者の意図とは違った方向かもしれないからだ。

だが、一度試みに書いてみようと思う。


このシリーズは普通の動画としても楽しめるだけでなく、メタ的にも楽しめるように思う。なぜなら、私には、これがパロディであるように見えるからだ。

私が言っているのは、アイマスのパロディである、ということではない。〔ある種の〕ノベマスの、あるいはそれに対する俗情の、パロディのように見えてしまう、ということである。

いわゆる変態プロデューサー系のノベマスでは、「仕事はできる」「微妙に良いことを言う」「アイドルがころっと騙される」などのお約束がある。ある、というか、あった、というか、あるいは実際にはなかったのか、そういった細かいことは知らないが、何となくイメージはつくだろう。

本編はその方向性を極限までに高めた作品である。プロデューサーは犯罪者に近いレベルのド変態でありながら、イケメンで金持ちで仕事ができ、芝居がかったセリフを吐きつつ、アイドルをくどく。あげくの果てには、くどいたアイドル二人〔現在の所〕とセックスかぶとむし行為までする。ある種、タミフルPの「エロゲーっぽいアイマス」よりも「〔間違った〕エロゲーっぽい」かもしれない。


本編のベース、そして面白さはその「過剰さ」にあるのだ。もちろん、その過剰さはお話そのものにもあるだけでなく、例えば、音楽の使い方にもあらわれている。

バロックである。歪み、今にも崩壊してしまいそうな真珠である。崩れ落ちてしまいそうではあるが、いまだその美しさを失ってはおらず、むしろその様態が、ある種の美しさをかもしだしてもいる。

パロディをカウンターパンチとするならば、この作品は、ノベマスに対する俗情に絶妙のカウンターを〔意図したものにせよそうでないにせよ〕いれてしまっているのではないか。


冒頭で述べたように、確かに好みはわかれるだろう。嫌いだという人間もいるだろう。

だが、私は面白いと思う。いわゆる普通のノベマスとしても、そしてそのパロディとしても。

この過剰さ、歪み加減がこれからどうなるのか、私には楽しみでならない。



附記1:31話の説明文に「5/3都立産業貿易センターに行きましたが入り口で逃げました(´・ω・`)」とあった。いや、来ようよ(笑)

附記2:そろそろいつもの調子の新しめのものの紹介〔みたい何か〕メインに戻してみようかな、と思っております。こういったものもこういったもので、書くのは楽しいのですけれどね。
06/12/2009    テクストと映像と
たとえば、小説にはテクストの快楽があります。

登場人物や話の筋といった語られるものだけでなく、その語られ方、あるいはその語りそのものが小説の大きな魅力であり、愉悦です。あるいは、それこそが、最大の美点なのかもしれません。

ぼくの好きな小説に漱石の「坊つちやん」があります。ぼくごときがいまさらいうことではないのですが、その一番の魅力はそのテクストにあると思います。坊っちゃんの喋るその言葉、あるいは山嵐の、赤シャツの、野だいこの、狸の、生徒たちのそれは、一つ一つ全く異なっていて、それぞれがキャラクターを書きわけながら、各人を駆動させています。そしてまた同時に、うらなり君とマドンナは二人ともほとんど喋らないことによって、そのありようを見せています。

話の筋は単純です。外からやってきた坊っちゃん[主人公]は、山嵐[相棒]とケンカを通して仲良くなり、二人で協力しながら赤シャツと野だいこ[敵]を〔物理的に〕叩きのめすが、最終的には町を追われる――まとめてしまえば、たったこれだけです。どこからかやってきた主人公が相棒を〔トラブルを挟んで〕作りつつ、敵に一矢報いて、また去っていくという筋は、他の小説なり映画なりといったものにもよく登場します。というより、いってしまえば、そもそも、話の筋という奴は結局かぎられたパターンに収まってしまうものなのかもしれません。

あるいは、映画について考えます。映画の楽しみは何か。もちろん、話じたいでもありますが、すくなくとも半分は、その映像であるといってよいでしょう。

なんらかのストーリーを伴う他のジャンルにしても、その話じたいの重要性というのは、多くて半分といったところではないでしょうか。

小説におけるストーリーとテクストは、あるいは映画におけるお話と映像は、車軸の両輪のように通底しながら、互いに影響をあたえ、作品を前進させています。

それでは、NovelsM@sterというジャンルでは、どうか。

いわゆるネタ系のものはおいておくとして、なんらかの一貫したストーリーをつむぐ作品においては、この事実が大きくのしかかってきます。

定義上、映像をもちながら、テクストによってお話をすすめるというNovelsM@ster〔あるいは、架空戦記でも、もしかしたらそうかもしれません〕では、映像とテクストはいったいいかなるものであるべきなのでしょうか。言うまでもないことですが、一人称や呼称、あるいはメッセージウィンドウやキャラクターの立ち絵などといった程度の低い話ではありません〔もちろん、それらの重要性を否定するわけではありませんが〕。

たとえば、「」は、表示されるものをテクストのみにすることによって、その姿勢をあきらかにしています。あるいはたとえば、「夜は短し走れよ乙女」では、その色彩がストーリーと対応しながら円環をえがき〔使われている色の並び順に注目すべし〕、物語を〔文字通り〕彩っています。

テクストと映像のどちらがお話を駆動し、プロットに精彩を与えるのか、あるいはいずれが主となり従となるのか、そしてその比率はどうかという、話を演出するにあたっての根本的な問題は、文字を使いながらお話をみせる動画において、深くその身を横たえています。

幸運なことに、そしてまた不幸なことに、この問いには一つの解答というものは存在しないでしょう。いいかえれば、なんらかのストーリーを伴った動画を〔文字を使いながら〕作るということは、この問いにひとまずの回答を出す、ということなのかもしれません。
ボンテリP「ボンボン餓狼風アイドルマスターその1」

バカと天才は紙一重、と言われる。なるほど、天才という奴はある側面から見れば、バカであることが多い。

では、奇才はどうか。

ノベマス界の奇才〔少なくとも私はそう思う〕であるボンテリPは、鮮やかにその答えを見せてくれる。

すなわち、奇才とはバカそのものの謂である。

ニコニコにおいて、奇才と呼ばれるものたちは多くの場合、次のような問いを向けられることがよくある。つまり、「なぜそんなものを思いついたのか」、そして、「なぜそれを実際にやってみようと思ったのか」の二つである。

本編は、コミックボンボンで連載されていたマンガ「餓狼伝説」、通称ボンボン餓狼[ボンガロ]とアイドルマスターとのコラボレーションである。意味のわからない設定改変や、多くの矛盾、そして間違った方向に熱いセリフまわしなどなど、一部の数寄者を熱狂させた、伝説のマンガである。

したがって、本編の内容は推して量るべし、である。「うっお―――っ!! くっあ―――っ!! ざけんな―――っ!」である。プロデューサーが、春香が、社長が、あの口調で喋り、暴れる――それだけと言えば、それだけである。ボンガロを知らない人は、もしかするとどこが面白いのかさっぱりわからないかもしれない。だが、それがいい。

なぜこんなものを作ろうと思ったのか。

ボンテリPのブログでは「ボンボン餓狼+アイマス→何故誰もやらん?→じゃあやろう!」と書かれている。赤字で書かれた「何故誰もやらん?」の部分がすばらしい。すばらしくバカである。「何故誰もやらないんだろう?」「作ってみたらどうかな?」などではない。「何故誰もやらん?」である。単なる疑問などではない。怒りにも似た、熱いほとばしりなのである。「あってしかるべきだろう」と言っているのである。

この熱さ、そしてバカさ加減。まさしく、ボンテリPほどボンガロネタを扱うに相応しい人間はいないと、私は断言する。


なお、余談ではあるが、「ボンボン餓狼風 と、ある雨の日」「ボンボン餓狼風【アイドルマスター×サナララ】」「ボンボン餓狼風アイドルマスター 日高愛プロローグ」などという動画も存在している。もちろん、制作はボンテリPである。サナララの説明文にある「どうしてこうなった!」とは、私のセリフである。まあきっと、相続税の問題でも絡んでいるんだろう。
06/05/2009    Real Life Real Heart
わかむらP, 陽一P「Real Life Real Heart」

シリアスなお話を作りやすいキャラクターと、シリアスなお話を作りにくいキャラクターがいます。

アイドルマスターにおいて、前者の代表はたとえば如月千早で、後者の代表はたとえば高槻やよいです。それがシリアスな物語であればあるほど、千早を中心としたそれは作りやすくなるのに対し、やよいを中心としたものは作りにくくなります。

これは、キャラクターにおける性格の欠損の問題です。なんとなればすなわち、基本的にシリアスな物語には、主人公の何らかの意味での成長が、メインプロットにしろサブプロットにしろ、組み込まれているからです。この意味で、性格的にある種の欠損をもつ如月千早は、そうではない高槻やよいに比べて、シリアスな物語の主人公役として使いやすい存在だといえるでしょう。一方、高槻やよいは、その天真爛漫な性格から、シリアスな物語の主人公ではなく、主人公と、その成長を助ける役になりがちです。たとえば、一般的な「やよいおり」のストーリーラインでは、水瀬伊織の全人的成長を高槻やよいがサポートする役割におかれています。あるいは、千早とやよいを組み合わせても、同様のプロットができあがるでしょう。

この「Real Life Real Heart」という作品がすぐれているのは、まさに、これらの誘惑、あるいは難点を振りきって、高槻やよいをシリアスな物語の主人公に据えられたことに尽きるといってよいでしょう。「現在の」高槻やよいでなく、「歪んだ経過」を挿入することによって、欠損を作りだされたやよいは、少なくとも私にとっては、納得のいくキャラクター改変でした。

シリアスなお話の主人公にしにくいやよいを、自然な方向へ改変して欠損を作りだすこと――それこそが、この作品の妙味であり、評価されなければならない点だと考えます。
06/01/2009    Pの憂鬱
憂鬱P「Pの憂鬱」

ペデューサーPはストレートPの子供である。ストレートPがライオスならば、ペデューサーPはオイディプスである。

ペデューサーPはノベマスを作る際に、先人であるストレートPの作品を研究したという〔参照〕。そしてその結果、ダウナー系のコントである「あっというま劇場」とは逆の位置にある、アッパー系漫才の「ドタバタ紙芝居」を制作した。

してみると、憂鬱PはペデューサーPの何になるだろうか。

それはきっと、弟か妹のようなものだ。ペデューサーPがストレートPの逆を行ったとすれば、憂鬱PはペデューサーPの枠組みからズレたのだ。

なるほど、アッパー系の漫才という分類では、同じである。文字や音、SEなどのタイミングへのこだわりもまた、指向性が似ているといえる。しかし、その内容は十二分に差別化されている。下ネタと真美というペデューサーPがいずれも用いない道具をメインにして、「Pの憂鬱」は制作されている。「真美は変態」タグはその証だ。

憂鬱Pの過去のブログ記事〔消されているが〕を見たことのあるならば、憂鬱PがペデューサーPをかなり意識していたことは〔直接的に言及されていないものの〕、自ずと明らかであることは首肯してもらえるだろう。

そういった意味で、この作品はいわゆるところの「タミストペドの劣化コピー」ではなく、ペデューサーPの異母兄弟であり、あるいはその後継者である、と言えるだろう。



参照:ねこようじPによる「Pの憂鬱」のレビュー

附記:新作の紹介をしてもよかったのですが、以前はこういった少し長めの文章での紹介をしていなかったこともあり、新作に加えて、これからは前からある動画についてもエントリを出していこうと思います。また、少し前に「紹介の方向が定まった」などとある人にのたまったのですが、実のところ、依然として迷っているというか、いくつかの方向性を試しながらやっていきたいと思っています。まあ、これからも好き勝手に紹介しますよ、ということで。
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